敵がいないことこそが悲劇なんだ。悲劇が存在しないことこそが悲劇なんだ。なぜなら、それは責任を転嫁すべき漠然とした何かが存在しないってことを意味するのだから。
 というようなことを『NHKにようこそ!』で佐藤くんが言ってませんでしたかね(かなり歪曲してる感)。そういう考え方にはかなり影響を受けてます。
 
 自分のpostをさらっとなぞることで記事が成立するのでは、という思いつきが降りてきたので試してみる。
 
 ・『赤灯えれじい』一巻を購入、読了。「ヒロインのためならやる時はやるし成長もするけど依然ヘタレ」な主人公がかわいい。チーコさんに至っては言葉を尽くしても語りきれないくらい萌えている。
 ・『真夜中の弥次さん喜多さん』二巻(最終巻)購入。や、読んだことは有ったのですけれど、このたび晴れて購入。サイケデリックな漫画、と言ってしまっていいものやら。とりあえず、「最も好きな漫画を一つだけ挙げろ」と言われたらまず脳裏に浮かぶくらい気に入ってます。
 ・『デトロイト・メタル・シティ』最終話のみ立ち読み。何も感じなかったのでノーコメント。何も感じないという時点で……。
 ・選民意識は持っても別にいいけど決して外部に持ち出しちゃならねえ、という自分ルールを。
 ・post傾向の変遷については、とにかく「現在のその人を」フォローしてるのだということさえ自覚してればまあ良いかな、と。好きじゃなくなったらリムる。実際にリムーブに踏み切るかは別として、そう考えておくことで今この瞬間のフォローが尊いものになる……ような。
 ・異聞録のキャラはみんな好きです。誰か一人、というなら南条くんを挙げます。
 ・観衆の目を意識しながら一方的に弱者を嬲るのって醜悪ですよねー、と。仕分け人の話。仮に彼らがドライに徹してフラットな審判者たろうとする姿勢を見せていてくれたのなら支持してましたけど。ただただ醜悪としか言えないあの公開リンチを見せられたら、糞食らえとしか。
 ・ツリー分岐は複雑なゲームの再プレイ(コンプリートもか)のために考えられたシステムっぽいですよね。たとえば『この青空に約束を』に必要かというと、全くいらない訳で。
 ・「成熟」の件。相手を戯画化してdisってるつもりなのかも知れないけど、デフォルメが激しい上に対象をぼかしてるせいで誰をdisってるのかさっぱり判らん。藁人形としてすら輪郭がおぼろげってどういうことなの。