断絶に自覚的になるというのはつまり互いの接触不可能性に自覚的になることであり、それは互いに無軌道な暴力を行使するような状況を招くものとは限らず、むしろ互いの境界にどこまでも接近しようとするような――或いは、その境界をぎりぎりまで近い位置に置こうとするようなコミュニケーションを生みうるものである……という信仰を持っています。本当に根拠がないので信仰と称するほかない主張です。
 だって、そうじゃないと報われないじゃないですか。きっとセカイのどこかには尊い交感の形が実在して、たとえヒトとヒトが交われないとしても、価値ある接触を行うことは出来るのだと、そう信じないとセカイとか許せませんし。