「お前なんて本当のぼっちじゃない!」という指摘ってのを割と頻繁に見る印象です。ぼっち認定問題とでも呼びましょうか。
 実際のところ、「ガチで人間と関わらず生きてる人」「関わりはあれ、絶望的な断絶を感じてる人」「関わりそのものは良好ながら、その数が少ない人」「人間関係の拙さを『ぼっち』という言葉に仮託している人」などなど、同じぼっちと言っても一概には語れない……というのは大方の同意を得られるところなんじゃないかと思います。で、認定の問題ってのは要するに「本当のぼっちはどれか」って話になってくる訳ですが、個人的には限りなく興味のない話なので言及しません(てへへ)。ぶっちゃけると一般化とかマジで興味ない。あらゆる物事について。
 じゃあ何が言いたいのさ? っつうと、「仮に『本当のぼっち』なる基準が出来たとして、『それを満たした者』というラベリングが本当に断絶を埋めてくれると思ってるのか?」という疑問を呈したい訳です。端的に言って、そうやって基準を明確に―――それは、ある集団の中でしか通用しないものでしょうが―――することによって、本来的には個人の数だけあるはずの、「断じて纏めてはいけない」筈の、そんな精神性が形式として確定され一般化され、多くの人がそこに押し込められ、或いはそこの補集合として語られるようになってしまうことを危惧してる訳です(全然端的じゃねえ)。傍から観測する人にとっては「わかりやすい」ものが増えて嬉しいのかも知れませんが、中にいる者としては「殺す気なのか?」としか言えないですよ、そりゃあ。
 
 他者を記述することの暴力性について。類型から再帰的にヒトを語ることの傲慢さについて。もう少し、センシティブになってもいいんじゃないかなー、と。