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 偽史を紡ぐこと、というのはしばしば愚かな行為として記述されます。あるがままの歴史を正確に紡ぐことができず、不勉強と恣意性によって歪めた歴史を記述してしまう行為であると。しかし、実際に「歴史を紡ぐ」という行為について考えた時、極限まで細かく考えると(……という留保が極論の証左、とは言わない約束)、ある事実とある事実との間に因果を見い出すという作業には、不可避に恣意性が混じります。であるがゆえに、偽史を紡ぐことが愚かなのではなく、偽史の不可避性に頓着せず、その偽史性(胡乱な新単語)を低減する努力を怠るがゆえに愚かであるのだ、と言えるのではないでしょうか。言えないでしょうか。そうですね。はい。
 何が言いたいかというと、まず「人間は既知の事物について正確な歴史を記述できる(可能性がある)」という幻想がそげぶされかねない程にあやふやなものでしかないのではないでしょうか、ということです。要は問題提起。ここだけ書いておけば二行で終わったのですが、あんまりにも短すぎるというので水増しした結果がこれです。