3/9なのでONEの茜ルートをプレイ。オレとぼくの交差する日、日常は軋みを上げる。
 『秋桜の空に』をパクリと言うのは、やはり何か違うんじゃないかなーという気がする。実際にどの程度参照したのかという話ではなく(影響を受けていない、ということはあるまい)。どうしたってプレイヤーは主人公の視点で世界を覗くのだから、主客のどちらが、という一点は極めて大きな表現の差異を招きうるのではないかなーと思う。って考えてたんだけど、最後の最後に語り手の移行する演出が丸かぶりだった。そこをパクリだと言われれば反論しがたいところではあるんだけど、異なる過程が(表面的には)同じ結末を招き得た、その捩れがどこに存在していたのかに目を向けたいなあ。