邪気眼中二病について考えるべきはそれらがピュアな衝迫の発露としての面と既に人口に膾炙したひとつのコードとしての面を併せ持つことであって、とはいえ実際には有限の範囲内で重み付けをもって両者を内分した点にインスタンスを持つ訳ですが、ともかくそういった両極性を有するということを忘れてはなりません。
 境目を撹乱するか、きっちりと定位して追求するかは趣味の問題なので自由にしたらよいと思いますが、どういった処理が行われていて、何が達成されているのか、そういったことを僕らは精確に把握し/記述できるよう努める必要があります。