Charlotteにおいて能力が世界を変えていないことは意図的なものだと思っているのだけれど(全世界を巻き込む異変であり、また主人公が世界を巡るにも関わらず話の規模感が小さい理由の片方)、そこから何を酌むべきか、もっと言ってしまえばどのような論理の顕れとして捉えることでそれを含む解釈の中の大きな運動をどのように方向づけるのがよいかといったことが懸案事項になっていて、かれこれ一ヶ月ほど悩んでいる。なぜ悩んでいるのかというとまあだいたい再視聴が足りていないからですね。何手か考えてはいるんだけどアホなので相対的な最善手がどれなのかもよくわからん。再視聴を何度か済ませたら識者に意見を伺いたい。その時にCharlotteの話したいマンがまだいればの話だが。
 
 瞬間移動やタイムリープといった空想じみた異能が備わっても能力者たちは小競り合いに終始するし、恐ろしく強大なものとして友利の話に語られた科学者たちもよくある創作のごとき異常性をすら備えはしないただ普通に酷い人たちでしかなく、Charlotteはどこまで行ってもただの人間たちの話だった。手にした力が個々人の世界の見え方を変えるとか、或いは束ねられた力のうねりが世界そのものを変えるとかいった想像力はそこにはなくて、紛争や犯罪といった「リアル」の加速だけがそこでは描かれる。革新は為されないし空想は描かれない。
 どれほど強大な力を得ようと、人間は人間でしかない。プレイヤーをして人間が人間たることの自明性を疑わせた、人間未満の領域で為される触れ合いを描いてきた創作者が描く人間の果てがそのようなものであるとするなら、僕はそれにどう向き合うべきなのだろう、とか。実際まだあんまり考えてないので疑問形で終わらせつつ連休おわり。