小難しく作品を語ることのまずさを自覚するのはいいが、そこで「理屈を遣わず、思ったままの『よさ』を褒める」みたいな態度に出ることもまた普通にまずいし、素朴な振る舞いに偽装してる分だけ個人的には苛立たしいものに思える、みたいな話をした。
 作品を語ることの難しさは、それが無形の感慨を理論の鋳型によって秩序だった言説に変換するという経時的な/一方通行の手続きではないことにある。記述の形式が遡及的に感慨を規定し、そこでは「素朴な」賞賛もまた例外ではない。物語の構造や用いられている技巧や系譜学的な見地からの定位などはどうでもいい、とにかくそこにある「よさ」を褒めろという態度が志向するのは記述を曖昧に濁すことで連帯できる範囲を最大化することであり、処世術であって、語りの誠実さなどではない(もっと言ってしまえば、ここには「正しさ」が「他者からの攻撃を受けない状態」によって帰納的に保証されるような世界観がある。欺瞞!)。そのことに自覚的に、飽くまでも対人折衝の技術として選択的に行使される分については肯定できるが、それが何がしかの正しさをつかむための道筋であるかのように語られるに際しては、なんて脳天気なことなんだろうと思ってしまう。記述しないこと、を選択できなかった時点で正しさを掴むことは叶わない。

 何かを褒めることの暴力性について、みたいな話もしたが(何かを貶すことには理由が必要だが、褒めるのは自由らしい―――世界は狂っている)、これもまた処世術の話と倫理の話が都合よく境界を掻き乱され運用されている案件のような気がする。だいたい全て処世術ということにしておくと楽な世界になるのではないか。