シナリオほどではないにせよ、映像や音楽を解釈する際にも言語がそこに絡んでくる、ということは常々意識しておかないといけない。実際のところ忘れがちで非常によくねーなーと自分でも思うところなんだけど。
 映像そのものの体験→映像を言語で解釈した結果の出力、という部分に着目したプロセスを前提し、そのように作品に言及できる射程を自ら削減していくのはよくないと主張するスタイルの危うさはここにあって、映像を観た時点で既にそこには自分が介在している。映像の「よさ」を誠実に記述しようとすることは甚だ困難な試みであるが、その困難さは「自分は映像そのものを観る際に言語活動の助けを借りていない」ことを直接に保証しない。……と思う。たぶん。むろんこの与太はそのような記述を成そうとする試みの価値を疑うものではない、と念のため付記しておく。