なんでもいいんだけど、身体性の領分において、できないことを必死に繰り返すことで、人体は効率的にできないことのできなさ(・・・・)を覚えてゆく。できないやり方、と言った方がいいかもしれない。
 たとえば100mの遠投ができるようになりたいとする。全力で投げる。届かない、ので全力で投げ続ける。無論、距離を増やそうとしながら。するとまあ当然のように体幹の安定性が失われたり体重移動の精密さが損なわれたり関節を余裕をもって連動させる感覚が忘却されたりする。そのような誤った単純化―――意識の俎上に乗せる要素の縮減は短期的な成果に繋がり易く、人間をして有害な努力へと向かわしめる。精密な人体操作から力任せの筋力トレーニングへの転換は、短い改善とその後に続く永遠の停滞を約束してくれるだろう。一度得た甘さに味をしめればもう泥沼だ。同じようなことは到底追いつけないテンポで無理やり続けられる楽器演奏などにも言える。特定の能力、決定的に足りない能力を補うために動作を特化させた結果、潰しの利かない歪な短期的成長に結びついてしまう、ということはよくある。
 感覚さえ覚えればその場でできることと、神経系を育てなくてはできないことと、筋肉を育てなければできないことがある。感覚を覚える―――コツを掴むことだけが問題なのであれば、できないことができるように挑むのは良い手だ。しかし神経系や筋肉を問題にする時、できないことを敢えて「できないまま」繰り返す必要がある。神経の発達や筋肉の増強を狙う時、その練習の最中は目標とするパフォーマンスを発揮できない。できないが、そこでできるように頑張ってはならない。その禁欲こそが体を鍛えるという行為の最も難しいところであって、自分の体だからと遠慮無く傷めつける、行くところまで行ってしまおうと我武者羅に鍛錬を重ねることは、むしろ逆説的に甘えと見なされるべきであろう。