複数人を相手にものを教える時、簡単な問題―――たとえば一度やった基礎問題を復習として提示して「わかりますか」って訊くのは結構危うくて、回答する側からするとリスクリターンが全然吊り合ってないわけよね。正当できても特段評価はされないが間違えた時のダメージは非常に高いわけで。だから実は未知の難題について推論や当て勘での答えを求められる方が精神的にはずっと楽。そういうわけで、教育の場では簡単な問題を出して/間違えた者を(そのような意識がたとえ教える側になかったとしても)晒しあげるような構図を作ることは極力避けた方がよい、のだがまあこんなことは誰だって当然理解しているに決まってて、こんな簡単な/日常的に実感できる話をすら忘れてしまうところに「教える」という立場の怖さはある、と認識すべきだろう。確固たる我々の自我が状況に応じて能力を発揮し教育や学習を行うのではなく(・・・・)、教育や学習という立場によって我々がインスタントに形成―――と言って悪ければ誘導?―――される。そのようなプロセスから自由になることはとても難しいにせよ、そういう重力が存在するという前提に立つことで意識的に避けられる悲しさは少なくない筈で、僕は義務教育期間の教室にそのような知性が存在していればよかったのになあと今でも思う。

 みたいな話を兄が新人研修で超疲弊してるみたいな話と自分がいま受けてる研修の教育という行いへのメタな認識の欠如(つまり、歩いたり食べたりするのと同じ水準で「教える」ことができると思っている人間たち、ということだ)とに精神がアレされつつ思ったりしていた。また夏が来る。