帰ってきたヒトラーを8月に観て、当時の感想としては俺はドイツ人じゃねえから頭で理解はできても受け止めるべき深刻さってのが心で実感できないわけよ、痛快活劇パートが最後まで観たかったな、みたいな感じだったのだけれど、そもそも語るべき点がずれていたのではないかと思えてきて。
 アレな物言いだが、ヒトラーが大活躍するのを観るのは間違いなく楽しかった。不謹慎だと眉を顰める人々に堂々と持論を語り、敵対する勢力を無慈悲に粉砕し、ドイツという国とその国民に対しては深い愛をもって接する。そんな彼の中盤までの振る舞いはとても痛快で、だからこそ終盤のシリアスに切り替わるに際して「ヒトラーを扱う上で、やっぱりコメディないし痛快活劇に終始させることはできないのかなー」という落胆が先行していて(つまり、ある程度のブレーキというか、申し分程度のシリアスを混入させる必要があったのだな、という推察が働いて)、同行者のk氏にもそんな話をした記憶があるのだが、むしろその落差、夢から覚めたような瞬間の虚無感と少量の怖気にこそ僕は注目すべきではなかったのか。それまで楽しい物語の主役だった人物がユダヤ人への素朴な殺意を当然のように発露したあの瞬間、序盤に犬を射殺したシーンですらコメディめいていた世界が一気に色褪せて見えたあの転換点での出来事、あれこそがWWII当時のドイツ人が感じたであろう虚無であって、現代に生き返ったヒトラーという題材の痛快さにもっともっとと先を求めて映画に没入していた観客、つまり僕、にそれを追体験させることが目的であったとするなら、娯楽映画としても風刺映画としても半端だと感じていたはずのあの映画は、凄まじく精確な感情操作を成功させていたことになるのではあるまいか。
 悪者であるところのヒトラーによってドイツは支配されていたのです、などという歴史認識が無茶なことは歴史に無知な僕ですら知っていて、民主的に選ばれた怪物が台頭していくという悪夢的な構図さえも頭では十全に理解していたつもりだったが、あの映画が伝えたかったのが製作者側のヒトラーの解釈ではなくて観客にヒトラー時代の民衆の感覚を追体験させることなのだとすれば、自分はドイツ人ではないのでわからないなどという僕の感想は筋違いもいいところで、ここ数日ほど軽い自己嫌悪と漠然とした感動が時折襲ってくるのだけれど、上記したような事柄を確認するためにももう一回くらい観てもいいかなという気持ちになっている。