こないだのゲイ批判の件についてちょっと書きます。事件そのものについてではなく、かなり一般化した考えについて。
 何にキレてたかというと、Toggeterの米欄。
 
 僕は基本的に、マイノリティがマジョリティからの差別に立ち向かう時、感情論は避け、論理で闘うべきだと考えています。
 感情をブチ撒けることによって第三者に「過激」「暴力的」という印象を与えることが、この場合最も危険なことだと思うからです。
 周囲の視線を味方にしなければならない状況において、
 「よくわからないけど、怖い」
 「どっちもどっちのように見える」
 という評価をされてしまうことは、少なくとも僕には致命的に思えます。
 だから、表現規制などの問題について、論理を持たずに前線で戦おうとする人間は場合によっちゃあ敵にすら見えます。
 その怒りは尊いものだけれど、前には出てこないで欲しい――というくらいの気持ち。

 そういう観点から言えば、「ゲイ側も感情論を止めろよ」という指摘そのものには肯けなくもないです。
 ただ、その場合にはどれが感情論であるのか、具体的に指摘すべきでしょう。
 対象を明確にせず「感情論は止めろ」などと言うのは、真剣な議論をする人々に向けて「マジになっちゃって恥ずかしくないの?」と吐き捨てるに等しい。
 ただの煽りと切って捨てても問題ない程度には下衆な言葉だと思います。
 (それ以前に、あのまとめに感情論を振り回している人なんて見当たらないように思うのですけれど)
 
 戦略的に考えれば、間違いなく感情を押し殺してクレバーに戦うべきです。
 しかし、自分がマジョリティの側に立っている時、そういった(マイノリティの態度に言及する)言葉は、簡単に暴力性を帯びます。
 その際に僕がすべきは、まず同じマジョリティ側に立つ人間の暴力性を指摘することではないだろうか、と。
 
 そんな考えから、このエントリを書いた次第。

*9/21 誤記を訂正