物事について一般的な判断を下したい時には、まずそれに関わる事案を沢山集めて、それらに共通するものを考える……という作業がたぶん有効だと思います。一般化するにはまず独立なケース同士を比較検討することが必要だ、という話ですね。
 翻って、教育系の話がテレビやらネットやらで扱われる際、それぞれの人生の特殊性を理解していないような、早まった一般化が為されている場合が目に付くように思います。社会という場の閉じた領域――この場合は学校、教室――は、当然ながら構成する人間によってもその性格を変えますし、またその集団自体の性格が個々の人間にフィードバックを起こす、複雑な場です。それを更に個人の視点でもって眺めたぶんだけそれぞれの「学校」ないし「教室」というものが生まれるのですから、その認識にどれほどのバリエーションが生まれるのかは想像もつきません。仮にクラスメートであれ、それらについてどれほどの理解を共有できるのかは疑問です。まして、赤の他人であれば。
 そういった観点から、僕はむしろ、一般化を全くしない生のままの体験を記述するべきではないかと思っています。学校全般、教育全般について全称で何かを言えるというその驕りを捨てるところから始めて欲しい/始めたい。「こういう教師がいて、こういう友人がいて、自分は(子供社会において)こういう地位であった。このようなことがあって、こう感じた」というような、安易な一般化を施されないそれらの情報を集積/分析することで、初めて何かを言うことが出来るのではないかと思いました(それにしたって、「傾向として」というレベルでしか無いのですが)。
 
 自分の人生に物語を見出し、それを寓話のように扱うことはやめませんか? というお話。