日常系に関するpostをちょっとしたので、捕捉とか。
 『日常』とわざわざ括弧でくくってあるのは、「そんなに日常が好きなら現実世界でも見てろよ」みたいなあたまわるいdisを封殺するためと思ってください。
 
 要するに「日常系の描く『日常』そのものに全く価値を見出さない人に対して語る時には、むしろ『日常』それ自体が価値を持ちうるんだよ、ということをまず前提として説明した方がいいのではないか。『日常』の価値を認めずに議論を進めると、余りにも取り零すものが多くなるから」ということを主張してた訳です。主語が広すぎて自分でも読み返してみて目眩がするレベルの詭弁なんですが、とりあえず「個人的には」という文言を適宜付加して読んでください(お手数をお掛けします)。僕と同じ感覚の人、つまり「日常系の描く『日常』そのものが尊いのだ」と思ってる人と、日常系の『日常』に価値を見出さない人との議論において。
 要素に分解して語ることは、たぶん可能です。「ゆるさ」だったり、「安心感」だったり、「ちょっとズレた感じ」だったり。タグ分けするように、日常系の日常系たるゆえんを列挙して、それぞれについて言及することは可能です。しかし、この手法では取りこぼしてしまう総体ってものがあって。日常系においては、個々の要素ではなく、全体として見た時の性質こそがクリティカルなのではないか―――と考えた次第です。
 ゆえに、「たしかに日常は退屈だけど、」などと、一歩引いて別のラインから説明しようとする態度は、ちょっと頂けないんじゃないかなーと。そう思いました。