すごい最終回感を醸しだしておきながら通常更新。そこに痺れても憧れてもいいんだぜ……?
 
 胡乱な話。
 「解る」という言葉は、用法によっては非常に不誠実な言葉に成り得ます(不誠実に成り得ない言葉ってあるの? って突っ込みは容赦してください)。たとえば相手の個人的な体験やそれに基づく感想に対して「わかります」と返すのは、つまり"相手の使ったところの言葉が"指したものごとについて肯定することになり、これは相手との間に横たわる根本的な/不可避な断絶を無視して、忖度して語ることとなります。相手の言葉の枠組みを―――決して理解し得ないそれを借りて形だけ真似るので、そうならざるを得ません。よって、「AはBだった」と相手が言った時、「わかります」と返すのと、飽くまでも自分の言葉を使う体で「そうですね、AはBだと私も思います」と返すのでは、言葉の射程範囲が明確に違ってきます。後者も無論として、相手との断絶を埋められてる訳などないのですが、とりあえず誠実さという意味では上ではないかなあと。……などという、与太。
 なにが言いたいかというと、「わかる」と安易に言わないひとの誠実さというものは、もっと称揚されて然るべきじゃないかなあと。そんなことを思ったんですよ。