音声で記録を残す、ということの意味について考えるなどしていた。とは言っても考えるという行為に従事していたことだけが確かな上滑りした時間を過ごしていた訳なのであって、特に有意義な結論が残ったりはしなかったのだけど。
 しかしまあ、やはり音声情報には文章情報にては切り捨てられた情報が残っているので、そういう意味では記録に適しているのだろう、という事項を再確認できたことについては有意義であったのかもしれない。情報をより多く残すことがどのように自省の際にうまく働くのかについては全く判らないのだけど、全く判らないものの価値判断を未来の自分に丸投げする、というのも記録の記録たる性質の一つであろうし、まあ問題はあるまい。