狂乱家族日記を三巻まで読んだ。……擬似家族を構成する話であるという一要素のみを取り上げ、嬉々として家族計画の話に接続しようとするこの短絡さを世界は信者脳と呼ぶのだろう。つくづく引き出しが少ないと自覚させられる。しかしまあ、考えてしまったものは仕方がないので、軽く記述しておきたい。
 家族になること。家族計画においてはそれが物語の結末、ないしは結末で示唆される未来として描かれる。はじめ寛が語った通り、擬似家族は個人の弱さを補うための寄り合い所帯でしかない。個人の集まりに過ぎないから、誰か一人が他の全員に累を及ぼすような外圧を引きこんでしまうと、途端に有用性を失い、破局を迎える。そして訪れた離別を経て、個々人が―――殊に司が家族を認められる心性を獲得して初めて、家族計画は本当の家族になれる可能性を帯びる。家族計画は、司が家族というものへの眼差しを変化させる物語、と言えるかもしれない。
 一方で、狂乱家族日記においては、擬似家族はかなり早い段階から家族である。少なくとも三巻までの時点では、綻びも歪みも見られない。高屋敷家には家族を得ることに恐れを―――正確には家族に裏切られることに恐れを抱く人物が数名存在したが、乱崎の人々は皆一様に、家族を失うことを恐れているように見える。内部の綻びは相互の思いやりによって即座に修正され、不和の種はその場で焼却される。三巻までの全ての話が、個人の過去に関わる外圧を家族の誰かが/或いは誰もが分かち、肩代わりし、粉砕する話であることは、実に示唆的だと思う。衝突と言えるほどの衝突は一巻序盤の小競り合いくらいしか存在していなかったはずだ。家族は最初から価値あるものであり、彼らは夢見るように日々を楽しむ。失わないために戦う物語、と言ってしまえなくもないのではなかろうか。
 続刊を読んでみて、この印象がどう変化するのか、やや楽しみだ。