消費に際して「文脈に拠らない価値」みたいなものを希求し始めると本当につらぽよ感が高まるのでやらないように自制していたりする。たとえば「Manowarを聴くことで『ピュアなメタルを聴く自分』に酔ってはいないか? そのようなイメージを消費しているに過ぎないのであって、音そのものを誠実に受け止めているとは言えないのではないか?」とかそういうことは考えない。実際に文脈を廃するのは(多くの場合において/自分の振る舞いと興味の対象から考えて)無理だし、その行為の価値を認めようともあんまり思えないので。ちなみに価値が客観的にあるのか/あると認める姿勢に価値が宿るのか(ややこしいな)にも興味はない。防衛線。
 錯覚であることを攻撃の材料とする人種には錯覚を介さない真正な世界の姿が見えているのかなあ、などと考えるだに嫉妬で脳が死にます。もちろん半分は揶揄であり皮肉でありますが、もう半分は純粋な羨望。相容れない者であるか、本物の超越者であるか。いずれにせよ対話する必要はないし、できるとも思えません。よって断絶一択。