本当の自分を心に隠して、見せかけの自分で人と接する、というのはおそらく正しくない把握で、本当というからには隠蔽と虚飾の両方を包含した総体の自分をこそそう呼ぶべきである。対外的な処世術は「本当の自分」ではない、という主張は根拠薄弱に思える。
 創作物に於いては、この種の錯誤の空隙にこそエモさを読み込むことができる。つまり、「本当の自分を隠して他者と接していると自認している」こと、それ自体が注目に値し、賞味に値するということだ。創作物が真善美のお披露目の場である必要はかならずしもない。過てる時にこそ輝くものもある。