だいたい全てのものは本当に無価値なのであって、という前提の置き方を見て「そこまで相対化しても無意味では」って指摘するような身振りが本当に本当に嫌いで、そのような無意味さを無視するところに成立する思索になんてそれこそ価値がねえだろと思ってしまう。欺瞞の上に何かを積むにせよ欺瞞を共有することについては意識的にやって貰わねば困る。
 優れた人間は飽くまでも信仰と飛躍の領域で戦ってほしいという想いがあって、論理とか政治とかはだいたいどうでもいいものなのでそういうのはどうでもいい人間に任せておいた方がいいと思う。