身体を使う技能を習得する際の自分の調律法について、みたいなことをなんとなく考えていて、それが共有されないから生じるつらさというものが世界にはあまりにも多すぎるように思う。或いは、センスという言葉がそのような水準で遣われることは端的にくだらないよね、という話。
 構造は共有しつつも脱線した話。世人がオカルトに謎を求めていないことを最大限に利用し、オカルティストだけが欺瞞を知りながらもそれを大層な謎であるかのように語る振る舞いがどうにも嫌いで、そのような姿勢こそがオカルトを最も馬鹿にしていると思う。そのような人々が好きなのは謎自体ではなくて、眼前の謎に相対した時の自らの振る舞いに過ぎないように見える。謎を人の為に利用してはならない。人が謎に隷属しなければいけない。謎は世界の本質に迫るものだから。