コミュニケーションの方法の違うオタクやそもそも口下手な人を相手にうまく機能しないような話術を行使する人間をコミュニケーション強者と見做すのは大変よくなくて、抽象度の低い特定のプロトコルを共有していないと機能不全に陥るような者の能力を高く見積もる必要はないと思う。内部でしか通用しない語りを押し付けて会話をクラッシュさせてしまう、その様子をしてコミュ障と呼ぶのであれば、日常的な対話の型を無差別に振り回して他者を圧迫する動きはコミュ障のそれに違いない。むろん事務的な伝達など、場に何がしかの目的がある場合は別ではあるが、本来ならば。
 プロトコルを動的に生成できるような巧みさをこそ能力として評価していくべきだというのも当然あるが、むしろ重要なのはコミュニケーション強者への幻想を断ち切ることだと思っている。彼らの振るうそれが技術に過ぎず、暴力に過ぎず、怠惰に過ぎないのであれば、小賢しく暴力的で怠惰である僕たちにだって当然運用することが可能な筈であって。尊くないものをひとつひとつ殺していくことで、世界に占める尊いものごとの割合は少しずつ上昇していく。