何かを習得したい時には自分の出力(身体の動きであったり思考の道筋であったりする)の癖を観察し、そのような出力が為されるに至った理由を認識/望ましい方向に改竄していくようなアプローチが重要な筈なんだけどそういう意識ってあまり共有されてないような気がしていて、殊に発話/発声や描画動作などは顕著なのではないか。
 たとえば字をうまく書くのに必要な最初の一歩は綺麗な字を書きたいと思って必死に練習することではなくて(それは熟練者の訓練法だ)、「自分はどのような強弱/角度/長さを持つ線画の・どのような構造での結合を『美しい』と認識する人間なのか」或いは「一般的に『美しい』とされる文字の要件は何か」を認識することであり、そして次にすべきは「では、その『美しさ』を出力するために足りないのは何か。書いた字画をフィードバックする為の視覚に不備があるのか、それとも問題は身体性の領分にあるのか」などといった問題の切り分けだ。問題が解れば次は訓練の方法を考察する段階で、たとえば数cm角或いはそれ以上に拡大した「美しいと認識するお手本」に対してmm単位でのグリッドを重ねて手元の方眼紙に真似することでほぼ完璧に模倣、できなければグリッドを密に、出来たのならグリッドを徐々に疎にしていくことでどの部分が/どのような線画が苦手なのかを炙り出すとか、たとえば「真っ直ぐ真横に走る線」を引くとして、円弧を描くことしかできない単関節の人体は2つ或いはそれ以上の数の円運動を相殺させ直線運動を実現している筈だがそれは具体的にどこだろうとか、それらの操作によって望ましい線画を実現するための最良の組み合わせはどれか、などと考察するとか、まあともかく問題さえ明瞭であれば対策などそれこそ無限に考えることができる。
 何も考えずに望ましい形を想像して繰り返すことがきちんと実を結ぶのはその動作が充分に単純な時に限った話であって、字を書くとか発声するとか楽器を弾くとかいった極めて複雑な動作については個々人のセンス頼みになってしまうように思われる。問題を細分化し認識することによって初めて問題は自分の手に余らないサイズにまで落ちてくるし、また問題を分けることは高い自己評価を下すことのハードルを下げもする。綺麗な字を書いたり素晴らしい演奏をしたりできたか、と自問して肯定できなくとも、「線を右肩上がりに引いてしまう癖は制御できているか」とか「音楽的な演奏のため、きちんと強弱を意識して弾けていたか」といった小さな評価基準に関してなら、練習を満点で評価することも出来るだろう。結局のところ、自己評価を高く保てない作業を長く続けることほど難しいことはないのだし。