手垢のついた文章表現を小説で用いることの問題は独創性や個性の領分にはなく、もっと身も蓋もない表現それ自体の効果についての領分に属する気がしている(さしあたり、ここでは独創性や個性を読者が認めることで生じる効果については度外視しておく)。つまりそれを用いる態度を肯定/否定する以前に、その表現が力を持つという(殊に創作者としての矜持の問題に還元される場合などにおいては強く前提されるところの)了解がまず不確かで、そこを問うていくのが文芸というものではなかったか、みたいな。
 仮に上述のような理路を採用する場合、たとえば同じ言葉を繰り返し歴史の中で用いることで言葉そのものに文脈を背負わせるような文芸、たとえば和歌などをどう肯定できるかというのを最近考えていて、これは直観的に肯定自体は可能だと信じられるのでそこに問題は感じないんだけど、ここでとる態度によって色々と後のステ振りが変わってくるのかなーといった感触がある。