「『月が綺麗ですね」という文句は人口に膾炙した時点でもう駄目、使うと恥ずかしい」みたいなこと言う人間にものすごい不快感を覚えていたんだけどその理由がなんとなく言語化されたので書く。要するにそのような言及をする人間は『月が綺麗ですね』を「ウィットに富んだ/洒落た愛の告白のための言葉」としか思ってないように(僕にとって)思われるということなのだと思う。一種の決まり文句というか、一種のプロトコルというか。だからそれが陳腐化した(と、彼らが感じた)時点で言葉は死んでしまったということになる、のだろうと僕は感じる。実際のところは知らんしどうでもいいが。
 上述のごとき仮定をそのまま採用するとして、僕はそのような立場を肯定できない。『月が綺麗ですね』という言い回しの要点は情景に感慨を仮託し/仮託された感慨を受け手もまた表現を介して受け取ることで言葉に言い表しがたい「感じ」、感じと言って悪ければもののあはれと言ってもいいがさておき、をまさにその言葉をよすがとして受け渡すその鮮やかさにこそあるのであって、そのような言い回しそのものの持つ力を軽視し/流通する言葉としての鮮度だけを俎上に載せるような態度は焼畑農法よろしく価値ある言葉を蝗のように食い散らかす態度のように見えて仕方ない。認識のもとに言葉を遣うのではなく、言葉に拡張された認識を絶えず求めるような態度があって初めて世界は少しだけ美しくなる。そんな風に思う。