印象、感慨、といったものの情報量は極めて多くて、そこから限りなく情報を捨象していった果てに論理的な把握というものが成立する、みたいなのを物語を解釈するときには考えるべきで、では仮に創作者にとって(意識的な)部分の積み重ねではなく常に全体がそのもの自体として捉えられるように―――総体が部分の集積に帰せられるような感覚なく作り上げられたものがあったとして、それに僕はどのような言葉を寄せればよいのだろうか、などと考えるとやっぱり不可能性を踏破するためにいくつも壁を破らねばならない気がしてくる。
 本来はそういうことをするためにネットを頼っていた筈なのだが、惰弱なのですぐ忘れる。