感動的な物語を感動ポルノ呼ばわりするのは容易い。欲望を充足することを以ってポルノと称するのであれば、世界にはポルノと呼ばれるべき物語が溢れている。
 この言葉は自身も障害を持つコメディアンがハンディキャップが云々といった美談の主役としてのみ障害者を捉えるような健常者のまなざしを揶揄して造ったものであって、障害者という属性ではなく個人の個別性を尊重して接するべきだとゆー主張のための言葉だと理解してるんだけど、だから障害者が描かれるコンテンツをこの言葉で初手から切り落として議論の余地ゼロですよみたいな態度を取るのって立ち位置を変えただけで揶揄されているような無関心というか個別例への敬意の薄さみたいなものは依然存置されてるどころかむしろ強化されてね? みたいなところでまあもにょるわけです。いやあの作品観てない(正:北海道の非札幌圏に住んでるんで観る手段がない)んだけども。障害者が出てくる作品は即この言葉で揶揄できる、なぜなら感動的な物語で障害者が出てくれば感動ポルノであるには違いないのだから、みたいな空気が固定化されたら退潮もいいところやんけって話だし、ある種の祈りを込めて投げられた言葉が蛮族の棍棒と化して世界を叩き壊していく事案これで何個目かしらとか考えるだけでもまあつらい。