蔑まれるのには耐えられるけど、憐れまれるのには我慢ならない。含まれる傲慢さが前者の比ではないからだ。などということを考えたりしてました。
 同じ無理解であっても、善意にくるんでさも誠実であるかのように見せかけられたものの方をこそより醜く感じる、という話でもあります。
 
 断絶の存在を理解し、安易な理解を示さないこと……換言すれば、「理解すること」の不可能性を意識することこそが誠実さではないのかな、と。