放浪息子についてのアレ。より正確に言うと、放浪息子を発端とした派生議論に関するアレ。
 「あらゆる嗜好の表明は無条件に支持されるべきである。それこそが思想の自由、平等性の保証だからだ」という立場と、「実際にマイノリティを排撃する根拠になってしまうのなら、そのような表明こそが批難されるべきだ」という立場の間でシーソーゲームになってるのかなーとか(前提のような気もしますが)。前者を全力で支持して「ホモは個人的に好かない。これは食べ物の好き嫌いと同列の意味であり、もちろん実際の行動には移さない。飽くまでも対人嗜好の話だ」と公言することに問題がないとは思えませんし、かといって後者の立場を過激に推し進めて「嫌悪感を示唆するような表現は許されない」と杓子定規で言うのも良くて現状維持、実際には更なる偏見を招きそうな危険な姿勢に思えます。
 そも、社会的な差別という問題において、「この立場が正しい」というような完璧な姿勢など存在しないのではないかと考えています。無条件での保護はその恣意性からそれ自体が差別であるとの謗りを免れず、言説としての誠実さだけを根拠とした嫌悪感の表明にはそれが社会という場でどういった意味を持ちうるのか、為された主張は相手が解釈するものだという視点が欠けている。これらの比率はもちろんケースバイケースであり、その最適解が常に一意であるというのはちょっと想像しにくいですね。それに、実際にはもっとたくさんの視点から論ずる問題なのでしょう。でも、単純化してもこれだけアンビバレントなんだよ、ということをちょっと言っておきたいなーと想いましたので。
 
 ちなみに、作品そのものの解釈の筋が悪いという指摘もありました(所与のことかと思ってしまった件については僕の不誠実さが招いたことです。申し訳ない)。原作に当たらないとなあ……。

 *追記(本文にねじ込めなかった)
 なんかよくわからん文章になっちゃいましたが、要は「どちらかに振り切った姿勢をとりつつ、反対側の人間をクソ呼ばわりするのって不毛だからやめません?」という話です。「逆差別」をチラつかせて無軌道に振舞うのも、「差別」を掲げて過剰に弾圧的になるのも、どっちも自分の考えた正義っぽいアレに自己を沿わせてるだけで、流動的で特殊、個別性のある物事について言及するには不誠実じゃねーんですかねーという。そんなん。